サイトアイコン Pasania – パセミヤ

お好み焼きいまむかし

1965年に創業したパセミヤは、姉と僕が受け継ぎましたが正確には父の姉夫婦の経営する一店舗としてスタートし、両親が譲り受けたので僕で3代目になります。
生まれる前からお好み焼き屋で中学や高校の時は忙しいときは手伝っていました。豊南市場という北摂の台所を担う市場が近所で商店街も盛況だったこともあり買い出しのお客様でゴールデンウィークやお盆、年末年始がピークの山でお昼に開店してから終わるまでずっと忙しかったです。


当時はご注文を受けると写真のように食器にセットして持って行ってあとはお客様が焼くスタイルでたぶん他のお店もほとんどそんな感じの所多かったのでは無いでしょうか?(実はこれお好み焼きの変遷をたどると結構重要なポイントなんです。)お皿とお箸も出していませんでしたし、お客様も自分の好みの焼き方があり出来上がるタイミングやソースをどう塗るかもご自分で好きなようにしておられました。マヨネーズはオプションで別料金でしたし。
それがいつくらいからでしょうか?僕が大人になって手伝いだした頃からだから1996年以降かな、食べるときにお皿とお箸を言われなくても出すようになり、パセミヤも店が焼くようになりました。焼きそばは店が昔から焼いていました。
だいたい大人お二人で来られたらお好み焼き2枚と焼きそばはシェアでビールという感じのオーダーでした。お好み焼きはひとり一枚が当然で。
たぶん大手のチェーン店などがプラスワンアイテムでサイドメニューをどんどん充実させていたこともあり焼き上がるまでにつまめる小皿メニューから発展して、ボリューム感のあるメニューになり、いろいろ食べてお好み焼きは締めでシェアみたいな流れになっていったのではと思っています。

パセミヤでワインを提供しだしたのは1997年くらいのワインブームの時でワインを飲みながらお待ちいただく間に食べれるものをちょこっと作っていたのがリクエストが増えたこともあり事前にご予約いただいたらコース仕立てでご用意しますというスタイルになりましたがそれでも2005年くらいからです。そうなると1枚を分けて召し上がる方が増え、お好み焼きの切り方が端からタテヨコに切って食べるのが、ピザ切りになりました。親が健在だった頃、遠方からのお客様でピザ切りをした方がおられてびっくりしたのを今でも覚えています。たぶんこれからもいろいろと変わっていくのかなぁと思っています。

ここからは余談。
民俗学者の柳田国男の「明治大正史・世相編」の中に、

「子供を相手の担ひ商ひの方でも飴や新粉の細工物は通りこして、御好み焼などという一品料理の真似事が、現に東京だけでも数十人の専門家を生活させて居る。勿論衛生には非常に注意をするといふが、彼らの言によれば材料は馬肉ださうである。小児が路頭で馬を食ふ時代になつたのである。」(明治大正史・世相編東洋文庫版p.62)

とお好み焼きの記述があるのですが、具に馬はどこの店がしていたのか興味があります。戦前の史料にあたる必要があるので断言できませんが、大阪の混ぜ焼きスタイルはもともと東京の下町で発展し花柳界にひろまり大阪に伝播した可能性が高いです。当時はまだ名称も決まっておらず「おたのしみ焼き」という言い方もあったそうです。生地を薄くのばして具をのせて焼くのとはまた別でいろんな要素が合流して今のスタイルになっているので源流は一つでは無いと思います。日本の場合、戦前と戦後で食文化はかなり変わるのでもう少し調べてみようと思っています。

おまけ
豊中の店の壁に書いてもらった生産者のサイン。くり抜いて自宅に保管しています。
あの店にフィリップ・パカレやマルセル・ラピエールが来たのが今でも信じられません(苦笑)

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